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海の庭について

 

 

 沖縄出身の山城知佳子による《アーサ女》と、キューバ出身のサンドラ・ラモスによる《あらゆるところの水は悪い環境》には、どちらも作家の身体がそれぞれの出自である島の姿となり、海に浮かんで、漂流しているイメージが描かれている。

 「アメリカの裏庭」とも呼ばれるカリブ海を、「悪い環境の水」に囲まれて漂うキューバ島になった自身の姿を描くラモスは、キューバを生きる人々が島国である自国の状況に対し、ナルシスティックな自己言及に陥っている状況を批判的に描く。同時にトランクや水槽を用いたシリーズにおいて、命の危険をおかしながら小さないかだに乗って、他国へと亡命する人々の苦悩や夢を、海を漂流するトランクや水槽の中に詰め込んだ。それは「裏庭」の中に、自身の「庭」を取り戻そうとする人々の切実な願いのように思える。

 山城は「墓庭シリーズ」と呼ばれる、沖縄特有の「庭」を併設する亀甲墓をモチーフにした作品群において、死者と生者が交わる場としての「庭」に豊かさを見いだす。不謹慎だという批判を浴びながらも「強烈に生きている」ということを示すように墓の前で踊り狂う山城は、墓庭シリーズののち、基地があるゆえに残された自然の浜である「黙認浜」と出会い、そこから海へと飛び込んでいく。海へと身体を横たえた最初の作品である《アーサ女》は、沖縄の海岸近くに群生するアオサ(海藻)の中で、浮き沈みしつつ、沖縄=自身を見つめるアーサ女のナルシスティックな視点を描きだしている。映像からは海を漂う山城の息苦しい呼吸の音が聞こえ、そこでも山城は、墓庭と同様に生死の際で「強烈に生きる」自身の身体をさらけ出す。

 

 どちらの島も大国に翻弄され、住民たちは土地の強制接収や移住を強いられてきた。さらには豊かな自然、芸能を有する観光地として、異郷としてまなざされてきた存在でもある。《アーサ女》と《あらゆるところの水は悪い環境》におけるナルキッソス的セルフポートレートとは単に神話的な自己愛のイメージであるよりもむしろ、たえず見られる存在として生きざるをえない「沖縄」「キューバ」を生きる人々のナルシスト的性格が投影されている。

 

 精神的な意味も含めた「難民化」を強いられて島で暮らす人びとにとって、島の外が他所であるだけでなく自分の暮らす島もまた他所なのであり、波打ち際や海を漂っているイメージは、そこに追いやられるというネガティブな状態から、必死に生の場を模索し水辺に「庭」のような生と死の交差する居場所を見出しているように見える。海を漂うイメージは島の内部に留まるのではなく、また外部へと隔たりを越えていくのでもない形で、内と外の隔たりをそのままに生きていくという意思があらわれているのではないか。

 

 本展では、沖縄とキューバという遠く離れた島をテーマに、互いに近接するイメージを視覚化する2名の作家を紹介する。

山城知佳子《アーサ女》2008年、ラムダプリント、YUMIKO CHIBA ASSOCIATES蔵

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